昭和47年09月18日 月次祭



 金光大神様を、お唱え申しながら、天地金乃神様のお心を、お慕い申しながら、一歩でも、その神様に近づかせて頂くということが信心であり。教祖の神様も、そういう信心をなさり、また、信奉者の私共にも、そういう信心をせよと教えておられるのでございます。信心せよ、信心とは、わが心が神に向うのを信心と言うじゃと。信心せよ、信心とはおかげを頂く事という風に仰っていない。信心せよ、信心とは、わが心が神に向うのを信心と言うのじゃ。
 そこで、私共が、生神金光大神様のお取次ぎを頂いて、金光大神を唱えながらということは、生神金光大神のお取次ぎを頂きながらと言うことです。しかも、段々分からせて頂く天地の心。天地の心を、分からせて頂けば頂くほど、生まれてくるのが、神様への憧念心。神様への、慕わしさ。この慕わしさが生まれてこない限り、よい信心は生まれません。ただ、お参りすれば、お参りするがたある。おかげを受けると言うのではね、信心は進みません。
 神様の心を分からせてもろうて、その神様の心に、いかにしたら添えるか。その神様の心が知りたい。その神様の心が分かりたいと念ずる所から、信心が、いわゆる、信心せよ、信心とは、わが心が神に向うのを信心と言うじゃと言う信心になってくる。そこで、神様の心が分かるということが、その事を通して、その問題、その難儀を通して、はっきり分からせて頂くのが、神様のお心である。
 子供をもって合点せよと、神が氏子をお守りくださる心を、自分が、子供が可愛いと思うその心で、神様が、私共を守っておってくださることを悟れと、こう教えられるのですけれども。なるほど、子供は可愛い。けれども、そんなもんかなぁというだけの事であって、神様は、本当に、親が子を思う思いなどとは、天地ほどの開きのあるほどしの、大きなお心でありましょう。神愛。
 ある場合は、母親のような、お土地のような心をもって、場合は、天のような心で、または、父のような厳しい心をもって、私共に接して下さる。それが段々分からせて頂くということ。分からせて頂くから、叩かれながらでも、その手に縋って、有り難いということになる。四神様の御教えの中にも、ただ、おかげを頂かせて下さいと言うて、涙を流して願う氏子は多いけれども。神様、この事を通して、この事をもって、神様のお心が分からせて頂きましたと泣いてお礼を言う氏子が少ないと。
 そういう、神様のお心というものは、どのような中からでも吸収できる、どのような中からでも、神様のお心を分からせて頂くけれども。とりわけ、そのような難儀に直面する、苦しい時。私は、分からせて頂くおかげではなくて、そういう時に分からせて頂く、神様のお心と言うものがです、尊いと思う。ですから、結局、みなさんがもっておる、様々な、問題と難儀と言うものを通して分からせてもらう。そこんところを、今日、私は、一番に申しました。
 生神金光大神様をお唱え申しながら、神様のお心を分からせてもらい。そのお心が、慕わしゅうて、慕わしゅうてたまらんと言う心で、天地金乃神様のお心に沿うていこうとする。一歩でも、その神様に近づいていくと言うこと。その事が、教祖金光大神が頂かれた信心であり。同時にまた、私共にも、そういう信心を頂かせようとお取次ぎの働きを以ってなして下さる。
 只今も、本当に神様のおかげを頂くと言う事は、本当に大変な事だ。神様の本当の御神意を悟ると言う事は。それがですいうならば巡りが深ければ深いほど、難儀が大きければ大きいほど、大きく深く神様を分からせて頂けれる人なんだ。それに、私のような不幸せな者はないと、嘆いたり、悲しんだり、不足を思うたりするという事は、もってもの他の事なのですけれども、そこを分からせて頂く時に、初めてそれなんです。あまりに生々しい体験談ですから、今日あたりは、お話は出来ないのですけれどもね。
 まぁ今日はたまたまそう言う様に、生神金光大神をお唱えして、神様のお心を慕わせてもらいながら、一歩、一歩その神様に近づかせて頂けれるという事は、とても巡りの浅い者などでは頂けれることではない。そういう意味で、合楽の方達は、私自身が、巡りが大きかった。今でも大きなめぐりを持っておりますけれども。その大きかった事で、難儀もまた、人並み以上の大きな難儀を抱えておった。
 その人並み以上の難儀をさせて頂いたおかげで、人が人偏なら私は行人偏と言う様に、一つだけは、人よりも苦労を余計にしてきた感じである。人が人偏なら私は行人偏という信心。そこからね分からせて頂いたもの。それが現在の合楽の信心です。私は昨夜遅う、昨日は合楽会でございましたから、まぁ12時近くまでお話をして、真っ暗になって、ここで、皆さん、送り出してしもうた。公子さんが奉仕着を着けてきて、ここで一所懸命御祈念をしておる。
 いつも毎晩のように、寝らんで御祈念を指導しておるような事を、いつもしておりますから、今日もそうだなぁと思うておった。それでお礼をさせてもろうて、立とうとしましたらそこん所で、親先生と言いながら泣きだした。それも言葉で形容するならば、お広前中をダンゴロリンしてもう苦しゅうて答えんで、ダンゴロリンしてさるかにゃおられないと言う様なもう悲壮と言う感じ、必死と言うか一生懸命の親先生であった。
 何かあったのかなぁと思った。親先生私はどうしてこんなに人並み、それこそ御理解を頂いて、よう頭では分かっておりながらです。どうして人の言うことやら人の態度やらを見て、このように腹が立つのだろうか。これはもう自分ながらどうにも出来ない。今日も朝から、誰にもコリを積ませ彼にもそれこそ言いたい放題な事を言うてしもうて、はぁしもうたと言った様なものではなくてです。
 例えばそういう自分がね、それこそ恨めしいように感じた。とても神様に詫びるとか、そんな心は出てこない。ただ自分の心の中にこの様な難儀、是はもう修行生同士だけではない。母親がくれば母親に姉がくれば姉に、誰にも彼にも当たり散らかし当たり散らかすと言う位な事じゃない、本当にそれは自分ながら恐ろしいぐらいにです。いうなら気も狂わんばかりに腹が立つ。私はそう言う様な状態の中に、成程公子さんが、お道の教師にでもならなければならなかった訳。
 成程内田の家の巡り深さをです。例えば公子さんの姿からだけでも、いかに内田の家の巡りが深いか大きいかと言う事を感ずる。兄弟やら親達が参りますと、それを私は言うです。公子さんがお道の教師でも、ならなければならなかったと言う事は、それこそ内田の家の難儀と言うか、そういう狂わんばかりに思わせて貰う様な、巡りと言う物を一人に引っかかって、公子さんが修行をさせて頂いとるじゃけん。
 どげん腹ん立つごたるこつば言うたっちゃ、本当に公子さんすみません、あんたに一人に難儀のせてと言うような気持ちでおらにゃいけんよと言うけれども。親やら姉やら、または修行生仲間でもです。公子さんが愈々その病気が出てきておる時には、とにかくやはり親子なら親子が喧嘩せにゃおられん、修行生同士なら修行生同士でも、その為にコリを積んで喧嘩しなければおられないと言った様なことが時々ある。それが、昨夜の場合は、講じきっておると言う感じ。
 私はとにかく言いたいだけの事を言いたいだろうけれども。狂わんばかりに思うと言う事は、言葉にもなって出て来ないけれども、その暗い中であるけれども公子さんがどんなに苦しいか。本当に苦しいかろう例えば病人が、息が切れるか切れないかという時にです。断末魔の呻(うめ)き声をあげる様な苦しさじゃろうと、私は思うて本当にどうかしてやれんもんだろうかと思う位だった。腹を立てると言う事でもですね、それはやはりそういう一つの巡りが、そういう爆発的なことになってくるとですよ。
 まぁ今夜私ここで昨日は、奉仕着をつけたままでしたから言いよる。だからそこで脱いで、奉仕儀をたたんで、納戸までやっといてくれと。恐らくはもうそれこそ、あの奉仕着をたたみながら、涙で滲ませた事だろうと思う。最後の御祈念をさせて頂いて、私休ませて頂いたら。今朝から本当に、親先生どうにもできなかった、あの狂わんばかりに思うほどしの腹立ちと言うか、もう誰々さんとは一生ものを言わんというのが、私の御届けをする内容であった。というほどに腹が立っておる。
 難儀も、ここまで至りますとですな、どういう難儀でも同じです。金が無くて、借金に責めたてられると言う難儀も。病気の難儀、もうそれこそ、死ぬか生きるかという、もうなーにも要らん、ここで助けてさえくださればと思うような心と同じなんだ。公子さんの場合でもです、もうこの心さえ取ってもらえれば、もう他には何にも要らんというほどしに苦しい。もうこれから、裏の方へ突き抜けるほどに痛いほどに苦しい、それが私によう分かるんだ。
 私は多くも語りませんでしたけれども。まあしっかり御祈念でもしてからと。そして私は休ませて頂いたんですけれども。今朝からお届けに出てまいりましてから、本当に親先生、昨夜はおかげ頂きましたと。もう後は言葉になって出らなかった。よくよく聞かせて頂いたら、昨夜親先生にお取次ぎを頂いて、いわゆる生神金光大神を唱えながらと言う事がその事なんです。お取次ぎを頂かせて頂いたら、親先生がご神前に出て、生神金光大神様、天地金乃神様有り難うございますと仰っておられたのを。
 声を聞いた途端に私の心の中に、もうそれは不思議な不思議な働きが起こってきた。今まであの人とは一生ものは言わんぞと。是だけはどうにもとどうして自分のこの汚い心というものがもう分かっておる。腹を立てちゃならんもう特に合楽では、和賀心和賀心と言われる。分かっては十分おるのだけれども、どうにでも出来ない苦しみが、ちょうど病気が襲ってきたようなもの。そして死ぬか生きるかというほどしのもの。
 借金取りが、それこそ、無理難題を言うて、借金取りに来ても、まあこげん貧乏するごたるなら、もう死んだほうがマシだと言うて、たった五万円ぐらないなお金で、一家心中する人さえがあるのだから。その苦しみと言うものは、どの苦しみだってです、狂わんばかりの苦しみと言う事になってくると、同じなんだ、苦しいと言う事は。そして、自分の心、ほんの今まで、あのような心がです。どうして、このように変わられるであろうかと思うぐらいに有り難かった。
 早速、裏に行って、自分たちの女性の修行生部屋に上がったら、まだ上野先生が起きてあった、まず上野先生に、すみませんと言うて、お詫びが言えた。もう誰にも彼にも起きとんなさるなら、みんな回って、本当にすみませんでした、コリを積ませて済みませんでした。あんな事を言うてと、また、あぁいう態度をとってと、お詫びして回りたいような心が生まれた。さぁそれから、上野先生も喜びゃ、公子さんも喜ぶ。一晩中有り難い話をさせて頂いたと言うのです。
 私は思うです。そういうめぐり、そういう難儀を抱えておるからこそです。神様に近づけるのです。信心させて頂いておる者の、有り難いということは、例えば、じっくり塗れたフキンと言う物がです。乾いたものが、めぐりのない人であるとするならばです。めぐりのような、これがじっくり塗れておるようなものなんです。天地の親神様が、火がここに燃え盛っておるとするならです。乾いた人なんかは、側にあったら、プッと燃え上がるように信心が出来ないち言うのはそれなんです。
 本当に悪人の自覚と言うか、巡りの深い自覚と言うか。屑の子であるという自覚に立たせて頂いた者ほどしがです、神様に愈々近づいていける。側まで持っていっても燃え上がらんのだもん。神に近づくと言う事はそう言う事なんです。公子さんが一人で修行しよるけれども。それこそ公子さんが一人でおかげを頂いたと言う様なおかげに繋がる事のための、今は前提でありその修行である。とてもですそういう神様に直にね触れるほどしに、接近出来ると言う事は巡りの自覚。
 巡りを持っておる難儀を持っておる者じゃなかなければ出来ることじゃないです。私共もそうであった。そういう様々な、人間の難儀というこれ以上の難儀はなかろうと言う難儀を辿らせて頂きながらです。愈々神様に近づかせて頂いた。近づける内容を持っておる。これがじっくり塗れておるようなもんなんなんだ。だから神様の火の側に寄っても燃え上がりもしなければ、またこれが熱いとも感じないのである。改まろうと思っても改まれない。けれどもこれが私の癌だと。
 さぁ今朝からそれを公子さんが言っておりますようにです。とにかく、ダンゴロリンするごたる苦しみの中にです。それこそ、昨日、私に親先生と、私、立ち上がろうとした時に、あの暗闇の中で、私に呼びかけた時の、悲壮な声というものはです。いわゆる、生神金光大神を唱えながら(  ?  )でけた、もういよいよ、神様の心の中に、限りなく近づけたのだ。どうにも出来なかった、猫とか犬とかがです。ダニがついたり、いろんな虫がつきます。
 さぁ痒いから、ダンゴロリンしておるけれども、自分ではどうにも出来ない。それを通りかかった人が、あらこりゃどうしただろうかと言うて、見ると、はぁこれは、ダニが食いついとるけん、こりゃ痛かったろう、痒かったろうと言うて、取ってやると、後は、嘘のようにおかげを頂くようなものなんだ。公子さんの、昨夜はそれだった。生神金光大神天地金乃神様有り難うございます。この唱える言葉なら、いつも聞いておることなのだ。けれども、昨夜のそれはです。
 公子さんが愈々神様に近づいておったから、それを受け止める事が出来たんだ。してみるとです、私は難儀もまた神愛であると言う事がわかるでしょう。巡りが大きいと言う事もです。それは大きなお徳を下さろうとする、神様の神愛以外にはないという事が分かる。私はお道の信心はです、そこの所を分からせて貰い。そこの所をです神様の心が分かり、神様の心に沿わせて頂く所の信心の楽しみと言う物をです。
 味合わせて頂きながらですから、とても熱いとか寒いとか、早いとか遅いとか、眠いとか眠くないとかなんかということは、全然問題ではないほどしに、有り難うなってくる訳です。信心せよ、信心とは、わが心が神に向こうの神事と言うのじゃと。そういう一歩でも神様に、近づかせて頂く信心を、願わせて頂くと言う事は、生神金光大神様を、唱えながらと言う事。生神金光大神様を唱えながらお取次ぎを頂きながら。
 天地金乃神様のそれこそ燃えておられる天地の親神様に、近づいていくと言う事は、とても普通のものでは近づけない。もう本当に巡りの自覚の出来た者じゃなかなければ近づけない。そういう有り難い事になってくるのですから、難儀もまた所謂有り難いと言う事になり。そこを通らせて頂くと言う事は、愈々尊い信心修行だと言う事になるのです。愈々二十三日は、御霊様の御大祭。御霊様のお祭りが近づきますと、何とはなしに御霊様が、ザワザワザワザワしてお見えられますですね。
 私共がやはりさぁ記念祭、記念祭と言うけれどももう後一月と、こうなってきたら何とはなしに、皆さんの心の中にザワザワする物を感じられるでしょう。もし感じられないなら貴方の信心は、根本的に間違っとると言わにゃいけない。まぁどうしてこう手はつけられんばってん、何とはなしに心が騒いでおるザワザワしておる。御霊様の心の状態がそのような、今現在がそうです。その二十三日二十三日がです、何とはなしに御霊様が落ち着かれんと言う様な感じで、ザワザワした物を感じる。
 皆さんの御心眼とかお夢の中にでも、御霊様が現れてその日の盛り上がりを願っておられる感じであります。お繰り合わせを頂いてもうそれこそ一家を挙げて、御霊様との私共との間を玉串を奉らせて貰う。その玉串に通わせて頂けるほどしの、ただ玉串上げさえすりゃええ、お供さえすりゃええと言った様なものじゃなくて。そういう御霊様がザワザワしておられるほどしの、いうならば興奮状態私共もやはり本当に、その日を楽しませて頂くと言う様な心の状態というものがです。
 そこに御霊様と私共が出会いと言う事にもなり、そこからですまた御霊様のお祭りを頂かなければ味合えない信心が生まれてくるのです。魂の世界ですから魂の世界で、例えば清まった魂汚れ果てた魂。信心とはその清まられる上にも清まらせて頂こうというのが魂なんです。信心ですその清まった心でね、御霊様に合間見える所の式が、私は御霊様のお祭りだと思うです。どうぞそれまでの幾日かではあっても、そのための修行でも一つさせて頂くような気持ちで、みなさんご参拝を頂きたいと思います。
 今日は、あまりにも生々しい、昨夜のお話でしたけれども。今朝今私が聞いて頂いた、生神金光大神を唱えながら、慕わしゅうてたまらん神様のお心に、一歩でも近づかせて頂くと言うことを聞いて頂いた。それを教祖の御教えで言うならば、信心せよ信心とはわが心が神に向こうのを信心と言うのじゃ。そこで向かうためにはです、私共がやはり類は類をもって集まる。合楽に縁を受けておられる方達は、みんな巡り深いみなさんだと言う自覚の元にです。おかげを頂く事によってそれこそ。
 普通のもんでは近づけない所へ近づいていけて、神の心を身に受けて心に受けて、手の平を返す程しのおかげ、又は体験がそこから頂けて来るおかげを有り難いと思わなければならんと思う。そういう信心を本気で身について行きたい。どうぞ今日若先生が教師会で私の代理で参りました。とにかく青年を育てると言う事。と言う事で本部を初めみなんさん一生懸命色々と、どうしたならば青年が若い者が育つかという話し合いがあったけれども。今日ここに至って手の打ち様はないという所に至っておるそうです。
 どんなにあの手この手を使ったけれども、青年が集まってこないと言う事なんです。そういう意味でです、合楽には若い方達が非常に多いし、しかも本気で信心を求めてみえられる方達が多いということ。これはもうマルショウの幹部達の上にでも、それを感じるです合楽の場合は。それがどういう所にそういう働きと言うものがあっておるだろうか、合楽の教会には。他のいうならばお手上げ状態だとこう言うのである。私が若い者にだけ、むごう言いよると言う訳でもなんでもないですけれども。
 私は一つの魅力と言うか、それに集まってくると言うのは、今日私が申しましたようにです。神様に一歩でも近づかせて頂くことを、しかも憧念心を燃やしながら近づかせて頂くあらゆるチャンス、あらゆる機会をその事を通して、神様へ一歩でも近づかせて頂こうとする、そういう働きがです。若い方だけに限らんのですけれども、合楽の御比礼の原動力であると言う事を思うのです。ですからお互いの家庭の上に於いても、同じような事を言えれるじゃないでしょうかね。
   どうぞ。